京都 大原
大原の里
寂光院 三千院

比叡山西麓を流れる高野川上流 小盆地 本来は(おはら)といい(小原)とも書いた!
京都から北へ向かう若狭街道が縦貫し平安時代以来 延暦寺にかかわる三千院などの名刹が多く八瀬 大原と併称された!
保元 平治の乱 源為朝・義朝などのように 戦乱の時ここを通過することが多く 出家・隠棲(いんせい)の地としても著名である 建礼門院徳子が住んだ寂光院や三千院は 観光名称となっている
大原女
大原は 平安京への薪炭の供給地でもあり京の街を売り歩く大原女(おはらめ)は 白川女(しらかわめ 花売り) 桂女(かつらめ 飴売り等)などと同様に古来から有名 明治以後は木炭を中心とした林産に加え 柴漬も特産の一つとなった
山里の大原では 男は山仕事 女は柴や薪を京都に売りに出た これが大原女(おはらめ)である 今は観光用以外にまったく見られなくなったが 地に白小紋の着物に御所染めの帯を締め 白の手甲脚絆 木綿の手拭いをかぶって 頭上に売荷を載せる いわばよそ行きの労働着を身につけて彼女たちは往復20数kmの道のりを京都へ通った
彼女たちが頭上に載せた荷物の重量は 30kgから時には50kgもあったという
三千院
三千院は大原で最大の天台宗寺院 代々皇族が住職をする門跡寺院である 寺は天台声明の修行の地として信仰を集めた 寺の南に「呂川」が北に「律川」が流れていて2つの川のせせらぎの音が上手く合うと綺麗な声明になるが 呂と律が合わないと声明も乱れる ここから「呂律(ろれつ)が回らない」という言葉が生まれた
寂光院
西の山のもとに一宇の御堂あり すなわち寂光院これなり 古う作りなせる山水木立由あるさまの所なり。「甍破れては霧不断の香をたき枢落ちては月常往の燈をかかぐ」とも かやうの所をや申すべき これは寂光院を描いた平家物語の一節 徳子の住んでいた頃の荒れ果てた様子がよくわかる 徳子にとっては舅にあたる後白河法皇が寂光院を訪れ 徳子と語り合う情景をえがいた「大原御幸」が有名である
大原問答の寺 勝林院
法然が唱えた易行門(「南無阿弥陀仏」だけを唱えておれば救われるとする教義)に対して既成宗派の叡山(天台宗)や南都(律宗な)の難行門(苦しい修行をしないと救われないとする教義)の学僧が「そのような念仏だけで人間は救われる筈がない」と問答を挑んだ それを受けて法然はこの寺で問答を行い難行門の僧達を屈服させた これを大原問答と呼んでいる 木々に囲まれた閑かな寺である
有清園の地蔵像
歩く通路以外は見事な苔に覆われているこの地蔵像はなんとも言えない優しそうなお顔をしておられる こちらも思わず微笑みたくなるようなお顔である
極楽往生院
三千院はこの往生極楽院が源となって大きくなってきた このお堂は恵心僧都が父母の菩提を弔うために建立された 堂内に祭られている阿弥陀三尊像は最近国宝に指定され脇侍の観音菩薩と勢至菩薩は何れも「大和座り(正座)」をしておられるのが珍しい
音無の滝
律川の上流 幅は広いがそれほど高くない 明け方に雨が降った割には水量も多くなく滝の音は静か「音無し」というのは全く音が聞こえないのではなく ここで声明を唱えていると無心の境地になって滝の音も聞こえないという意味
建礼門院徳子の墓
徳子は平清盛の娘 高倉天皇の中宮となり安徳天皇を生んだ 1185年壇ノ浦の戦いで一門が滅亡する時に海中に身を投じるが助けられて京都へ連れて帰られ長楽寺で剃髪仏門に入って寂光院にて一門の菩提を弔う この大原で余生を過ごした
阿波内侍と侍女たちの墓
阿波内侍は藤原信西の娘とも孫とも言われるが平家物語に登場するだけでその実在は不明 彼女は大納言佐と共に建礼門院の生涯を看取った女性 大原御幸では法王と女院の司会者的な役割を果たしている 道路から狭い石段を50段ほど上った上にあり苔むした小さな五輪塔が並んでいる
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